80回目の8月15日、終戦記念日

Xへの投稿とこのブログ

こんな投稿をした。

「2025年8月15日、80回目の終戦記念日。戦争を経験していないが、親から戦後の食糧難を聞いて育った世代として。自分なりの追悼は、朝から夜まで働き、「火垂るの墓」を観ること。心に強く残る作品を世界中の人に見て欲しい。」

いろいろと思うところがあるので、少しブログに書いておく。

親から聞いた戦後の話

都市部で生まれ育った父は、戦後の食糧難の中で芋の蔓まで食べたという話をしてくれた。想像するだけで胸が締め付けられる。

一方、農家で育った母からは、食べ物で困ることはなかったという話を聞いている。同じ時代でも、置かれた環境によってこれほど異なる体験があったのだと、子どもながらに印象深く覚えている。

私は昭和42年生まれで、戦争を直接経験したことはない。高度経済成長期の真っ只中に生まれ、故郷の東京がみるみるうちに変わっていく様子を見て育った。古い建物が次々と取り壊され、新しいビルが立ち並び、街並みが劇的に変化していく時代だった。

小学校の時、生まれ育った渋谷から、全盲になった祖母の介護のために千住へ転居した。そこで私は驚くような光景を目にした。同じ学校に通う女の子の家がトタンでできていて、床がない家だった。同じ東京でも、こんなにも違う暮らしがあることに、子どもながらに衝撃を受けた。戦後の名残がまだ色濃く残っている場所があったのだと、今になって思う。

自分なりの追悼

80回目の終戦記念日である今日、私は朝から夜まで働いた。それが自分なりの追悼だった。一生懸命に働けること、平穏な日常を送れること。それ自体が、戦争で亡くなった多くの方々への感謝の表れだと思っている。

そして一日の仕事を終えた後、80回目の終戦記念日に日本テレビが放送した『火垂るの墓』を観ることもまた、私の追悼だった。

『火垂るの墓』が映し出すもの

『火垂るの墓』には、心に強く残る幻想的なシーンが数多くある。特に印象的なのは、最後に戦後復興を遂げた現代日本のビル群と重なるシーンだ。あの場面を見ると、いつも深く心に響くものがある。それは私が渋谷や千住で体験した、高度経済成長期の東京の移り変わりと重なるからかもしれない。古いものが消えて新しいものが生まれる、それでも人の痛みや愛情は消えない。映画のあのシーンに、そんな印象を持つ。

この作品に登場する、兄妹は、幸せだったのだろうか。兄弟と離れ離れになってしまった父親は亡くなっていたのだろうか。母親はどんな気持ちで最後を迎えたのだろうか。清太が節子を思いやる気持ち、節子が兄を慕う素直な心。ふたりの間に流れる、貧しいけれど、優しい時間。それが尊いのか、残酷なのか、食べ物が溢れ、自由を謳歌できる現代に生きる私たちにも、静かに、しかし強烈に伝えてくる。

ただこの映画を世界中の人に見て欲しい

『火垂るの墓』を観終えた後、様々な想いが錯綜し、心が揺さぶられる。この作品が問いかけるものに、明確な答えはないのかもしれない。ただ、ただ、心が揺さぶられる。それが、ポジティブなのかネガティブなのかさえ、よくわからない。ただ心が強く、激しく、揺さぶられる。

『火垂るの墓』が描く、戦争をきっかけとした兄妹の物語が、現代の日常の中で何の意味があるのか、当たり前に過ごしている私たちにわかるのか。朝起きて、食事をし、仕事をし、他愛ない会話を交わし、そして、また眠る。そんな何気ない現代の日常において、『火垂るの墓』が見せてくれるシーンがどれほどの意味があるのか、私にはわからない。

だからこそ、ただこの映画を世界中の人に見て欲しいと思う。それぞれの心が揺さぶられるもの、心に響くもの、それぞれが感じ取るものがあるはずだ。

偉そうなことを言うつもりはないけれど、世界中の人に『火垂るの墓』を見て欲しいと思う。

80回目の終戦記念日を1日全力で生きることができてよかった。